1830〜40年のグリーン・グラス

イギリス、1830〜40年年のグリーンのグラス(13,5 x 6,5 cm)、白ワイン用の物。ボールの側面にカットが入っている。そのすぐ下のステムとの間の丸い部分にもカットが施されている。高級ワイングラス。まあ、そんな感じの物。シャンパンなんかを飲んでもいいかもしれない。僕はシャンパンなんか滅多に飲まない、百年に一度くらい、かな。僕はお酒は泡盛とギネスが一番好きかな。共に二十代に暮らしていたところのお酒だ。中国人の間で泡盛がブームにならないことを願うばかりだ。後二十年くらいしたらアンティーク屋をやめて、泡盛をイギリス18世紀ジングラスで飲ませるバーもどきを開いて、その頃はもう頭もボケているだろうから、みんなの話しをカウンターの中でふむふむとただ聞いて頷いて、お金を稼ぐとしようか。まあ、妄想だが、、。

僕に泡盛の味を教えてくれたのは、那覇で「うりずん」という琉球料理と泡盛の店をやっていた土屋さんだ。土屋さんは数年前に亡くなられた。新聞の記事欄で著名人の死を悼むコーナーがあるが、その欄を開くと、国連の高等弁務官か誰かの追悼記事の横に土屋さんの記事が大きく載っていて、僕はそれで彼の死を知った。それくらい有名な人だったし、とにかく可愛がってもらった。大学除籍になってすることがないときに、塩井ヒマならうちに来て働きなさい、と言われ、昼は土屋さんが主催したジャズコンサートの協賛金を頂きに、那覇周辺の泡盛の酒造会社をバイクで廻り、夜は「うりずん」で働いた。時々機嫌がいいと土屋さんが取って置きの泡盛を秘蔵の樽から出して呑ませてくれた。土屋さんの凄いところは、店にいても誰が店主か絶対に分からないこと。何時もテーブルに座り客と一緒に呑んでいるだけ。側から見ると唯の酔っ払いのおじさんにしか見えない。何時か、お医者さんの家で土屋さんを囲んで呑んでいると、土屋さんが急に、フラメンコが見たいね、、と言い出し、直ぐに沖縄で一番有名なフラメンコダンサーに電話をすると、程なく大きな何枚もの板と共にダンサーとギタリストが現れ、そのマンションの大きな部屋はフラメンコの激しい足踏みとフラメンコギターの音に包まれた。本当に究極の遊び人だったし、目の前にいてあご髭を手で撫でながら深い目でじっと見つめるだけで、沢山の人を魅了した。どれだけ沢山の人が彼に会いに沖縄に通ったことか。最後に土屋さんに会いに「うりずん」に行ったとき、土屋さんは僕の来る日を一日間違えていて会えず、次の日の夜、神の島、久高島の食堂の公衆電話から電話すると、電話の接続が悪く、土屋さんの声は途切れ途切れで、それが彼と話した最後となったのだが、後から思えば、あの久高島からかけた電話の掠れた声が、もう既にこの世とあの世を隔てていたようで、忘れられない思い出の電話となった。

何の恩返しも出来ずに終わったことがとても悲しい。あの土屋さんにあの目でもう一度見つめられたらな、と本当に思う。