18世紀後半のジングラス

イギリス18世紀後半のジングラス(高さ 7,8 cm、7 cm)です。ガラスが形成されるときに流れた跡や生地の不均一なむらが見えるのがこの時代のグラスの特徴です。一見何気ないように見えて、呑み口の表情の変化などが繊細で、その辺りは19世紀後半のシンプルなグラスとは大きく違います。19世紀後半のよく見かけるシンプルなイギリスのグラスにはそのような繊細さは無く、もっと雑な造形です。

僕自身イギリスのアンティークで本当に惚れ込んでいるのは1820年位までのヴィクトリア時代に入る少し前までです。その辺りから物の線の質が大きく劣化し始めるのです。「物を作る」ことの意味や、職人さんの矜持、それを使える社会層の人たちの自負、そんな幾つかの面で大きな変化が恐らく19世紀の初頭から半ばにかけて生じたのでしょう。

話しは違いますが、小説を中心とする本を色々と読んでいると、或る種の大きな劣化若しくは空白と呼べる変化が1990年代に日本では起きたように思えます。90年代の間に「読む」ことの質が大きく変化した、本来は深さと訓練を伴った営みだったものが、何か、もう単にデータを取得するだけの軽薄なものになってしまった。毎週通ってるプールが毎回0,5センチずつ浅くなっていて、すぐには気付かないけど、或るとき胸まであった水かさが腰の高さも無いことに気付かされるような、そんなじわじわと減っていくけど確実な後退。気が付けばその10年の間に、誰も彼もケイタイを携帯して歩くようになり、それはスマホに進化して最早身体の一部のような必需品となってしまう。もうそんな環境では「読む」ことの質なんて殆ど誰も問わないんですね。もう「読む」なんてことを追求していたら出版の世界ではやっていけないんでしょうね。出版も基本は商売ですから。18世紀のジングラスやシルバースプーンが「線」を失っていくのに似てて、「読む」こともごく一部の人たちを除いて現代では忘れられてしまうもの。時代は違うけど似ている、共通しているんです。

劣化は一度始まるとそれを止めるのは困難で精々出来るのはその加速を緩めることくらいかもしれない。そう最近は感じてます。至極残念なことですが。