カーネリアンの指輪

カーネリアンの指輪(サイズ 16,5号)、1897年イギリス、チェスター製、地金は9金。男性用の指輪です、石の表面にはインタグリオ(陰刻)でモノグラムなどの装飾は入っておりません。かっこいい指輪です。最近はこんな物でもバランスの良い物を余り見なくなりました。

昨日から暗いので、書きたいことも余りなく、気分が乗りません。金沢の犀川の北側に寺町という通りがあります。藩政期初期に藩主の意向でお寺が集められた地区で今でも70位あるのかな。お寺の建物も江戸からの物が結構残っています。昨日の夜一人でその暗い通りを歩いていたんです。人も車も全くなく、街灯もないような暗い通りに古いお寺がぽつぽつと建っていて、そこを歩いていたら暗澹たる気分になり、それを未だ今日も引き摺っている状態ですね。なんか、日に日に萎縮、文化的萎縮が進行していて、あれもするなこれも悪いこれも要らない、胃袋にもの入れる以外は不要不急だから、兎に角大人しくしろ、と言われてるようです。コロナが終わってもお上が認める趣味娯楽以外は認めません、大人しく栄養補給だけに専念しコロナ菌に対する免疫を付けることだけに集中して下さい、と言いたいように感じます。政治家や財界人は何故お金や数字に換算してしか人間を見ようとしないのか。人間って何ですか、人間の有り様は今やとても限定されて来ている気がします。グーグルのCEOが怪しい顔で言ってました、これから世界は増々デジタル化されていく、と。悪いけどそんな勝手な世界、僕は拒否です、要りません結構です、勝手にデータ盗んで僕たちを狭い檻の中へと誘導しようとやればいいんです。後三百年後には恐らく人間もグーグルもデータもないと思うんです。あるのは荒野と別の生物たち、それから人間が遺していった核のゴミです。本当にくだらないです、今やデータは宗教でさえあると言えます。バッハの音楽も中国の宋、明の水墨画も友達と交わす笑い声も蕪村の句も、全てデータ、そして大衆もデータでしかない。コロナよりデータ信仰のほうが怖いです。文化というものもデータに換算される中でしかきっと評価されないんです。恐ろしい汎可視化社会だと思いますし、これが暴力でなくなんでしょうか。

色んなものから逃げて何処か遠くへ行って暮らしたいですね、データ監視の及ばないところで。