ビザンチンのクロス

ビザンチンのクロス(4,9 x 2,3 cm)、恐らく10〜12世紀頃、ブロンズ製です。とても好きなクロスです。中々売れないですが、いざ売れるとなったら名残惜しいような、そんな物です。


スクリコラージュ  3

沖縄での学生時代、海兵隊の友達がいて、たまに普天間基地のゲート前で待ち合わせては、彼の車で基地内に連れてって貰った。長い滑走路に沿う長い直線の道を走るとすーっと胸のつかえが取れるような開放感を感じた。沖縄本島中部は土地も狭いうえ米軍基地も密集していて、その間を縫うように人が住んでいる。だからか、ときに何処でもいいから広い土地を見たい軽い衝動に駆られることがある。いつも見る風景を逆から眺める、フェンスの外には小さな家が縮こまったように建ち並んでいる。リトル・アメリカの中を走る車の中で、開放感を感じながらも、何処かしら罪悪感に似たものも湧き上がる。自分の抑圧された気分を基地の中を走ることで解決する自分。

コロナ対策で石川県も金沢市も芸妓さんへの援助は手厚い。勿論、芸妓は立派な文化だが、つい芸事と権力の関係について考えてしまう。何でもそうだが、芸は権力に寄り過ぎれば腐敗するのは昔も今も同じ。官製の小唄、端唄がどんなにいいものなのかは僕のような無粋な者には分からない。

最近月が綺麗だ。昨日の夜、犀川を渡るときに見た月の輪郭の切れが良く綺麗だったこと。人間が活動を自粛しているので大気が澄んでいるのだ。明治時代や19世紀の写真を見るとき何時も思うのは、人が少ないこと。その頃は今よりも格段に人が少なかった。最近の目の前の風景が昔の写真と重なり、たまに、昔の写真の中を自分が歩いてるような気持ちになることがある。

今、本屋では漱石が売れてるらしい、と人から聞いた。これからの大変な時代を生き抜いていく中で、文学、芸術、音楽などでも本当に力を備えたもの、深いところから人の心を掬い上げてくれるものが見直されていき、限定的かもしれないがホンモノへの回帰が起こると思うし、そうあって欲しいと願っている。浮薄なものは淘汰され流れ去ればいいと思う。少し雑な言い方になるが、所謂アクセサリー、自分を飾りたてるものとしての文学、アート、骨董など、少し前に流行った俗な言い方を借用すれば「アイテムとして必要なモノ」としての文学、アート、音楽、料理など、自己ステータス確認の為のツール。そんな半端なアイテムはモノはこれを機に徐々に消えればそれこそ夜の月のようにすっきり見えて宜しいと思う。

コロナで人が死んでいる。皆んな苦しい生活を強いられている。その大きな影の隙き間で微かに見えている光があることも忘れてはいけないな、と思う。