1816年製のティースプーン

1816年製のシルバーのティースプーン(12,7 cm)、ロンドンの Stephen Adams 工房製。スプーン専門の中々いいスプーンを作る工房です。写真から分かるように口に入れる部分の先端が全く磨耗してないので、殆ど未使用だと思います。1816年は19世紀ですが、未だ前世紀の雰囲気を残した、美しい線のスプーンです。一見何の変哲も無さそうに見えて実はこういうのが奥が深いんです。一番飽きの来ないものですね長く使ってても。これでアイスやゼリーを食べたら最高です。

「スクリコラージュ-1 」(これは僕の造語で、スクリプトとコラージュを合わせたもの、これからたまに使います)

東京のお客さんから手紙が届く。今のこのコロナ禍で、東京からの便りが遠くから来たものに感じられる、距離の感覚が100年位逆行したように感じられてしまう。まるで小津の映画の「東京物語」のように今の東京は遠い。人と人が普通に屈託無く会っていた少し前の時間も本当に遠い。

開ける栓と閉める栓を間違っている知事。兼六園を閉めたのはついの数日前で、コロナ感染者の詳細な情報は相変わらずの閉めたまま。

僕の机のペン立てに立っている50本位の色鉛筆の色とりどりの芯先が乱雑に固まり並ぶのを見ていてそれを美しいと思う、その今の自分は何なのかな、と思う。

金沢で有名な雑誌社が倒産した。ここには僕の店も色々とお世話になった。そこで働いていた編集者の女性に親しい人がいたので電話を掛けて少し話した。約二十三年前の未だこの店を開いて間もない頃にその雑誌社の取材を受けたが、何せ開店当初はお金も無くて、その雑誌に載せて貰った写真には、正に間隔を空けてポツポツとアンティークの品が寂しく並んでいた。相当経ってからそのときの取材記事の写真を眺めて、よくこんな状態で店を開いたものだ、と自分の「勇気」に感心した、というか驚いた。

たまにお客さんがやって来る。僕の店は床面積100平方メートル以下の古物商なので、閉めても営業保証を貰えるわけでもなく、日々なんとなく開けている。常連さんしか来ないので来客人数は、0か1。まるでコンピューターのようだ。入店と退店のときにエタノールで手を殺菌して貰う。ヒマなので友人、知り合いによく電話する。そう、僕は電話魔なのだ、昔から。そうやって日々誰かと情報や見聞したものを交換している。みんな情報に飢えているというより、肉声に飢えているのかもしれない、と思う。YouTubeの声は肉声ではない。

最近ここで書いているブログのための下書きに使っているネタ帳は、少し前に能登の七尾のダイソーで買った100円のA6リングノートだ。安いが、貼ってあるシールがダイソーだというだけ。中々に良い。それに、こないだ買ったペリカンの小さな万年筆でちびちびと書いている。大体、夜中か早朝に机に着いて。それはそれでそれなりに楽しい。