鎹(かすがい)直しのコーヒーカップ

18世紀後半のコーヒーカップ(高さ 5,8cm)、恐らくですが、中国製かなと思います。鎹(かすがい)と言う直し方は中国で主にされたものです。当時のイギリスでもこのような磁器を所有できたのは限られた人だけですね。元はティーカップとソーサーの三点セットだったと思います。

さて、自分の話しで恐縮ですが、最近益々、芸術、アート、アーティストなどの言葉に軽い嫌悪感を催しています。何でもかんでも味噌糞に「アート」を自称する状況のいい加減さ、いや、アートって結局自己顕示欲の別称でしょ、と問い返したくなるのです。前に彫刻家で親友の篠田守男氏とバーのカウンターで飲んでいたときに、僕がカウンター越しの女性に、アートなんてね大体詐欺だよ、って言ったら、隣に居た篠田さんがすかさず嬉しそうに、いや自慢げに、そうなんです〜僕は詐欺師なんですよ〜、と言い出したことがあります。これくらい言えると、中々茶目っ気あって良いですね。僕も人が悪くて、アーティストと一緒に居るときに、その人の度量を試すのにわざとこんな風なことを大声で言う癖があるんです。まあ、自分の中に本当に世界を抱えている人はこれくらいのことでは怒りゃしませんよ、怒るのは小者だけ、だから怒らせておけばいいんです。

何故僕がこんな意地悪をたまに言うかと申しますと、大体その手の自称アーティストは、自分がしていること、してきたことに対する自覚が欠けていることが多いのです。それと、ちょっと言葉は違うかもしれないけれど、羞恥心みたいなものがないかな、と。昔の文士が持っていたような羞恥の心が無い気がしますね。そもそも芸術家なんて存在は社会の周縁部にいる極めて危険な存在なんですから、そんなにいいものじゃないんですよ。その辺りの自己点検と勉強もしないで、前に前に出ようと頑張ってもね、、。

昔、10年位前かな、ロンドンのギャラリーで、アフリカの現代作家が自分の国で内戦があり、その民族間の殺戮で使われた銃を組んで作った椅子を見たことがあります。作品としてどうなのかは分かりませんが、迫力がありました。今でもたまに思い出しますし、そういう点では矢張り物に力があったんでしょうね。