旅するときに持って行く本。

今九州にいる、本を二冊持って来た、松本清張の「文豪」(文春文庫)、この評伝的小説の中に収められている、密かに樋口一葉を想う斎藤緑雨、について読みたかったので取り寄せた本、もう一冊は、リン・イーハンの「ファン・スーチーの初恋の楽園」(白水Uブックス)、台湾の小説、彼女は唯一の著作であるこの小説を出版した二ヶ月後に26歳で自殺している。元々、台湾のホームレスとソーシャルワーカーについての本を読んだのだが、その本の台湾での出版社が「ファン・スーチーの初恋の楽園」を出版していることを解説文で知り、ホームレスの本からこの激烈な(彼女の凄惨な体験に基づく)小説に出会った。読み始めたのは大分前なのだが、内容が重過ぎるのと小説としても完成度が高く、中々一気には読めないのだ。小説の中で引用されるものも、中国唐、明時代の漢詩、西洋古典文学、西洋哲学、東西の絵画など広範囲に渡る、八大山人が出てきたときは、少し驚いた。唯引用するだけなら難しくはない、これだけのものを物語の中に何の違和感もなく咀嚼して収めているその力量に驚かされる。引用が単にオーナメントに終わらずしっかりと意味を持っているところが凄い。兎に角、激烈な小説、と言っても過言ではないと思う。

旅に行くときは必ず本をカバンに入れる、何もないと不安なのだ、殆ど読まないときもあるのに無いと不安なのだ。昔は「週刊XX」みたいな雑誌を駅で買ったりしていたが何時からか覚えてないが、あの手の日本語の文章が読めなくなった、軽い文章が頭に入ってこなくなった、だからもう買わない。旅先で地元の新聞を買うのは好きで今もやる、長野なら信濃毎日新聞(地元ではシンマイと呼ばれ、コンビニで、シンマイですね、と言われたときはお米かと思った)、東京なら東京新聞、福岡なら西日本新聞、というふうに。その地域で読まれている地方紙でそこの人々のカラーがある程度は見て取れる。金沢(石川)では今でも年配の人はまるで決められたことのように北國新聞を取っている、不思議だ。北國新聞は今は保守色が強いが昭和の頃には出版部が良質の本を結構出していて今とはイメージが違う。

新聞や本の日本語を改行を多用し短く切って「読み易く」する、という傾向が少し前からある、しかし僕にはこの「読み易い」日本語は馴染まない。何をもって「読み易い」とするのか、難しい問題だが単に読者を増やしたいが為に媚びる日本語の平易化は良くないと思う。「読み易く」なれば内容も「薄く」なり詰まらないものになる、後、活字の大きさを矢鱈大きくしたり、ルビの多用、これも度を過ぎると返って読み難い。日本語自体がインターネットコンテンツに合うように変わってきて、その乱れが紙媒体の日本語にも大きく影響を与えている。まぁ紙媒体の日本語も殆どはパソコンかスマホで書かれている訳だろうから、日本語が平坦化して薄まるのも尤もなのだが。

さて、今から母親関連の書類作成しないといけないので、この辺で失礼。