夏の日のなんとなく。

数日前、二階から降りて来て玄関廊下を素足で歩くと足の裏に封筒がくっ付いてきた、何だこれ、と思い手で剥がすと封筒にこう書いてあった「死亡診断書在中」。母の死亡診断書を入れてあった封筒だった、いけないいけない、二階に持って上がる、恐らく九州から帰ってきたときに廊下でこの封筒をスーツケースから取り出し中身を抜いて封筒をその場に置いたのだろう、僕がやりそうなことだ、何時もこんな感じで酷い。今この封筒は「思い出」として母の写真の横にマスキングテープで部屋の壁に留めてある。

ヤコブ・ブロのCD「Uma Elmo」を聴いている、最初聴いたときはそれほどでもなかったが日が経つにつれて良くなっている。買ったのは母が亡くなる前だった、最初聴いたときは音が余り耳に入ってこなかったのに、今はとても心に響く。この違いを分析するのは難しい。母が亡くなって寂しいでしょ、と訊かれることがある、僕の答えは、いえ別に寂しくはないです、僕の母は四年半前に交通事故に遭ったときに僕の中で「死んだ」のだ、あのときの辛さに比べれば今回の死は大したことはない。

夏の夜虫が淋しく泣くのを聴くと夏が愛おしく感じられる、虫も僕も何時か死ぬ、早いか遅いかの違いだけで、大差は無い、虫は美しい声で鳴くけれど僕は無音だ、無音のまま死んでいく。あの完全に死を受容しているかのような虫の音、だからあんなにも心に響いてくるのだろうか、人間には中々出来ない技。夏の日の夕暮れは死の香りがする。

ジャズ、虫の音、人の死、夕暮れ、柔らかい空腹感。僕はパイプを喫う。

(写真は故郷の川、三隈川の夕焼け)