数日前街中を自転車で走っていたとき建物の壁にポスターが貼ってあり、それに大きく「デジタルの檻」と書かれていた。何のポスターだったのかは分からないがその言葉が心に残った。前に読んだ『フィルターバブル』(イーライ・パリサー 著、早川文庫)を連想した。この「フィルターバブル」と「デジタルの檻」はほぼ同じ意味だ、ネットの世界に耽るほど僕らは檻の中に閉じ込められ外の世界が見えなくなり、知性も失う。昨今の選挙も視野狭窄で過激な発言がウケる、非知性的発言が何故か支持されてしまう。
これからの生活のキーワードは「アナログ回帰」だと思う、意識的に生活の中にアナログのものを取り入れる。僕のやっているアンティークの世界はまさにアナログそのものの世界だ、デジタル世界に疲れた人が究極のアナログ求めてやって来る。意識的にアナログ回帰するには先ず知性が求められる、アナログ回帰とは知性を取り戻すことでもある、自分の頭と身体を連動させて考え直感を大事にする、直感は僕は知性の一部だと思うし、非知性の領域とも言い切れないと思っている。
今流行ってるレコードやカセットレコーダーみたいなファッションとしてのアナログ回帰ではなくもっとドロッとした、最初は努力と苦痛を伴うアナログ回帰が僕たちの枯れた精神には必要なのだ。詰まり、人間らしく生きること、たかが半世紀前の生活を真似てみることが大切なのだ。巷の人は自分の殻に閉じ籠るが、知らない人と会話する技術もアナログの世界だ、文庫本一冊をポケットやカバンに入れて出掛ける、本はクリックではなく本屋で買う。
生きることがここまで薄くなるとどうすればいいのか、自分で掘っていくしかない、そうやって抗う、時代に抗う、デジタル的生活の(部分的)拒否。掘っていけば昔の人が汲み取った「水脈」は同じように今も流れている訳だから掘ればいい。必ず掘った分だけ「水」に手を浸すことは出来るのだ。
自分の「知性」を諦めてはいけない、それを磨かなければいけない、自分の顔に「知性」を漂わせておかないといけない、「知性」無き顔にはいい出逢いはないから。
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