イギリス、19世紀前半の風景画(34,5 x 26 cm)、額は後から入れた物。水彩画、構図が面白いと思い仕入れた、二百年前の誰かが、この、手前の緑の木が向こうのピンク色の木に重なっている、構図、どちらかというと、手前の木々から向こうを覗いてるような風景の切り取り方を、面白いと感じ、それを絵に描いた。そしてその絵を二百年後の自分が彼(彼女かもしれない)と同じ視点で彼が観たように眺める、そこで画家と自分の眼が重なる、それは一つの体験でもある。更にこの様な変わった構図だと、画家の眼と自分の眼が「重なる」ことに意味がある、自分と同じ眼をした誰かが二百年前のイギリスにいて、この風景に眼を留め、それを絵に描いて残した、そして今それはここにある。僕はこれも一つの体験だと思う、絵を観る愉しさをこの様に考えることも出来る、時代を越えて「眼」で繋がる、風景をどう切り取るのか、その感性の共有、画家に共感しながら自分もこの絵を眺める。ピンク色の木に緑の木が重なるのも面白いと思う、画家の眼はそこにも惹かれたのだろう。
現代のブンガクやゲイジュツに完全に興味を失っている(何故ならとても信じられないくらい程度が低いから)僕は自然18、19世紀の作品に向かう、何年か前に「小林勇文集」を全集で買ったので偶に読む、岩波書店の社長をしていた文人で絵も描く、とても面白い、こういう文章を読んでいると今のサッカの本は読める筈もない、村田沙耶香とか、その手の人を指している、出版界もアフター・ハルキを求めて画策して新しいサッカを世に送り出しているのだろう。今僕は中央大学研究所が出している翻訳叢書を取り寄せて、サミュエル・ジョンソンの旅行記などを読んでいる、これを訳された研究者の諏訪部仁さんには頭が下がる、とても偉い方だと思う、こういう立派な仕事を残された方こそもっと注目されるべきだと僕は思うのだ。この方は歌人でもあるらしい。
今の世に殆ど幻滅してはいるが世を拗ねることなく静かに暮らしたいと思う。
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