ロンドンから送った荷物が今日届きました、少しずつゆっくり店頭に並べていきます。一度に出しても流石に置くスペースがない、アクセサリーと違ってグラスや陶磁器は置く場所が要る。それに直ぐ売れる訳でもないので物はどんどん増えていく、これが大変。どうぞ少し落ち着いた頃にお越し下さい、まあタイミングが合えば何か見つかるでしょうし、この世界はタイミングが全てみたいなところありますから。
今日は郊外にある(モール系の)温泉に行き、露天風呂に入り、その後そこの付属カフェのソファーで寛ぎジンジャエールを飲んだ。使ったお金は七百円、ロンドンの直後では全てが安く感じられる。ここの温泉に入ると身体の毒素や疲労が抜けるのか一発で身体が楽になる、今回は時差ボケの疲労がきつくて今朝まで身体がしんどかったがそれも治った。温泉は偉大だ、金沢の良いところは街中に温泉があること、僕は薬を飲んだりは余りしないほうだし医者にもそれ程行かないので温泉は治療院みたいなもの。僕は十歳のとき大火傷を両腕に負い、そのときも田舎の治療院の治療方針で毎日温泉に患部を漬けて治していった、その病院は今もあるし、僕が通った温泉もある(大分県の田舎の「壁湯」という温泉)。その温泉もあの頃はつげ義春の漫画に出てくるような鄙びたところだった。治療院の向かいにそこが借りてる安アパートみたいな部屋があり、そこに住みながら治療を受けた、二ヶ月近くいたように思う。冬だったのでその部屋から見える雪景色を何となく覚えている、最初に入院した福岡市の病院で事故当日医者が僕を治療しながら側にいた看護師に、この子は死ぬかも、と目の前で言うのを聞いて、それから僕は、死ぬって何だろう、と思い、その疑問が消えず、次の大分の田舎の治療院に移り、母に手を引かれて雪の積もった田んぼ道のような場所を歩きながら、母に、お母さん死ぬって何?、と訊いたのを良く覚えている、母は確か、怒るように、そんなことは考えないでいい、と言ったと思う。僕はちゃんちゃんこみたいな物を着て、両腕に包帯、母に手を引かれて白い道を歩いていた。僕の、母との古い思い出の一つだ、今やもうそれを母に話すことも出来ないので、一人噛みしめるだけだ。とても懐かしい、1973年冬のこと、同じアパートで治療を受けていた人には僕と同じくらいかちょっと年下の女の子が一人いた、矢張り火傷を負っていた、もう一人大人の男の人もいて、彼は股間に火傷を負っていたので、周りの人が、あの人はアソコを火傷して、、と噂していたのも覚えている。母がその女の子に優しくしていたので僕はその子に嫉妬心を抱いていたのも記憶している。全ては暗かった、火傷が治ってくると患部が痒くて、搔きむしらないように右腕を母に紐で縛って貰い寝るのだが、起きると治りかけたところを搔きむしり左腕の包帯が血で真っ赤に染まっている、その鮮血の色も覚えている。
懐かしい、という言葉は不思議だ、この言葉の中に色んな感情を投げ入れて一言で済ませることが出来るから。英語にこれに当たる言葉は無いと思う、極めて東洋的な生活感情に根ざす言葉だ。
(写真は大分県日田市隈町周辺、僕の母方の先祖は江戸時代からこの辺りで暮らしていた、この辺は今も古い街並みが残る)
0コメント