お葬式も終わり、、。

母の死後、お通夜、お葬式、(前倒しの)初七日、役所の手続きと連続で続き疲れました。お葬式は母が交通事故に遭って四年半近くのブランクがあるにも拘らず五十人位の方が見えられてちゃんとお葬式をやって良かったと改めて思いました。一言で言えば、母の人生を語れるのは僕しかいなかった、と思いました。新聞、ケーブルテレビで告知されましたが、加害者も加害者側の女社長(M&T 山本)も現れることはなかったです。事故当日に「もち吉」のおかきセット持って加害者の従業員と女社長で病院現れて以来(病院と会社の距離約百メートル)全くの無視で全ては終わった訳です。裁判の前に加害者から謝罪の手紙が弁護士を通して来ましたがこれは罪の軽減を狙ったものでしょう。特にお葬式ではこの加害者側に対する軽蔑の念(怒りを超えている)について、それから母の人生についてしっかり喋りました、上手く話せたと思います。ただ、スピーチの最後になって想いが胸に迫り号泣しそうになるのを我慢しようとしたら言葉が出せなくなり、マイクを前に俯いて最後の挨拶と感謝の言葉を絞り出すのがやっとでした、兎に角大泣きしたりはしたくなかった。福岡から来てくれた年上の従兄弟が、マスオ、って言いながら僕の横に並んで立ち横目で僕を見て肩を強く摑んでくれたのが嬉しかったです。実際来られた人の中には母が交通事故に遭ったことも知らず、何処かに消えた、と思われてた方もいました。母は地元の板金組合の事務をやったりしていたので板金屋さんが沢山来られました。八十代の板金屋さんで母と親しかった人はバイクで来られて香典を渡すとまたバイクにすぐ乗り、僕が追いかけて、母の顔を見られますか、と言うと、あんたのお母さんの顔は僕の中に焼き付いてるから今の顔を見たらそれが壊れるから見ない、と言われました。その通りです。いい言葉ですね。母と仲の良かった九十手前の男性が現れ、僕も知り合いでしたが、僕を見つけるなり寄って来て両手で僕のネクタイを摑みネクタイを直してるのか僕の首を締め上げてるのか分からない行動で、おい、俺に弔吟をやらせろ、と言うので司会さんに頼んで捻じ込みましたが、吟を歌いだすと哀しいのか下手なのかその両方なのか、調子がヘナヘナで吟もその後ろ姿も与太ってました。(次回に続く)

(写真は日田の三隈川)