地味な花柄のお皿。

地味な花柄のお皿(22,8 cm)、1820~40年、イギリス。半磁器の素朴な柄のお皿、縁取りの黄色がアクセントになっている。僕はこういう皿が好きだ、派手さは全くないが飽きない魅力がある。壁に掛けてもいいし、皿立てに立てるのもいい。

仕事で東京に日帰りで行って来た、時間が少しあったので高円寺に寄って何時もの食堂F(居酒屋みたいな店だが七十代の店主は自分の店が飲み屋でなく食堂と呼ばれることに誇りを持っているので此処でも食堂と書かねばならない)に寄り、ビール飲みながら定食を食べ、その後は同じく何時ものコーヒー屋Bに寄ってカッコいい女性が淹れる美味しいコーヒーを飲んで来た。僕の高円寺での定番コースだ。食堂Fの主人は首を痛めたらしく苦しそうに前屈みでカウンターに立ち料理していた、おじさんは永遠の文学青年、大体文学やる奴は不健康なので私ゃ健康とかね余り興味ないの、文学やる奴って昔から病気だったりするでしょ、と言いながらも苦しそうだった、定食の値段も頑なに上げないので未だ七百円前後、高円寺のお店で働いてる若い子などが毎日定食を食べに来るので優しいおじさんはそれもあって値段を上げないのかも知れない、二人で話してて器用貧乏という言葉を僕が使うとおじさんは、それは正に私だね、器用貧乏だからさ、お金持ちになりたいね、私の言うお金持ちはさ、大企業の高給取りくらいのだけどさ、そういうのになってみたいね、と話してる。僕はここに来るとモノクロの写真を何時も撮る、モノクロが似合う空間なので僕はシャッター押さずにはいられない。空間全体がとてもポエジー溢れている、知性の無い人をこういう店に連れて行くと、汚いとかボロいとか言いそうな店だ、ある人が知的であるかどうかを試すのにリトマス試験紙の役割を果たす空間だ。そういえばおじさん、首が痛いから大好きな読書が出来ない、と言っていた、それも辛そうだった、大体店が終わってからカウンターの椅子で居眠りするのが悪いのだ。

帰りに新幹線に乗る前に自分用に「東京ばな奈」を買った、少し前に人に貰って以来この東京の何処にでも売っているお菓子が好きになったのだ、これとコーヒーで小さな幸せが感じられる。ミラン・クンデラの「緩やかさ」を読んでいる。この国の読書人達がハルキを捨ててクンデラを手に取ればこの国の知性も遥かに向上するのにと思わずにはいられない。