葡萄の蔓の絵の金彩グラス。

葡萄の蔓の絵の金彩グラス(高さ 9 cm)、1820年頃、イギリス製。ジングラスでしょう、これでワインは流石に飲まない。フランス製にも一見これと似た感じのグラスがありますが、ガラスの生地質も、鉛の含有率も落ちる、だからもっとくすんだ色になる。このグラスみたいな輝きはない、造形ももっと悪くなるしカット装飾もない。このグラスはカットも生地も質が高い、ブルジョアジーが使ったグラスです。金彩もよく残ってます、余り使ってないのでしょう。

もうすぐ63才になる、江戸時代や明治なら死んでる歳だ、昔は人生五十年、五十歳はもう老人だった。僕自身歳をとったという感じはそれ程ない、前よりも身体が疲れ易い、筋力が落ちてくるなどの自覚はあるが、それよりも歳を感じるのは性格が丸くなったことだ。若いときはもっと性格が攻撃的で人とぶつかることも多かった、簡単に言うと生意気だった、それが五十歳くらいから段々角が取れてきた。それと、いいことは前よりも鑑賞眼が付いたことだろうか、本でも音楽でも絵でも骨董でも若いときよりもものが観えている、もう読めなくなった作家や聴けなくなった演奏家、興味の無い画家も多い。昔アイルランドに住んでいたときにクラシック音楽に詳しい人の話しで、ある音楽通が、モーツァルトの音楽なんて何の価値も無い、nothing だ、と言っていたのを聞いた記憶がある。そのときは、何て酷いことを言う人なんだろう、と自分は思ったが、今はその意見に同感する自分が二割か三割いる、モーツァルトの音楽はとても美しい、それは動かし難いこと、でも、その一方でその美しさは何処か表層的な感じがしないわけでもない。そう感じるようになったのはこの五年くらいのこと。絵でも例えばピカソなどは過大評価だと思う、これは断言出来る、そう騒ぐほどじゃない、好きな人も多いだろうから悪いけど、パウル・クレーなども僕は興味がない、そんなに絵が深いとも思わない。セザンヌも若い頃のような興味はもう無い。キース・ジャレットも聴けなくなったし、グールドですら前ほど聴かなくなってしまった。その代わり、何でもない小さなものや無名の作品に心が惹かれることが前より多いように思う。芸術や美術工芸品は無名の物が一番だと思う、朝鮮の大井戸茶碗、喜左衛門は無名の陶工の作だが未だこれ以上の茶碗は無い、楽茶碗も素晴らしいが矢張り無名のこの茶碗には遠く及ばない。その辺りは柳宗悦が詳述している。

それでも自分の中で残っていく作家や演奏家、画家は矢張りいるもので、深く狭くなりながら変化している。絵画ならば、エドワード・ホッパーが観たいし、富岡鉄斎の晩年作を一つでも多く観たい、中国の古い書はもっと観たい、余り知られていない昔の写真家の写真も観たい、五十年代のジャズはもっと聴きたい、など。それでも色々と尽きない。