何となくティーカップ。

何となくティーカップ、共にイギリス1800年頃の物、工房は不明だが、高級品ではないが味のある物、左のほうが物が良い、右のほうが庶民的、でもユニークな可愛さがあっていい。僕はこういう無名の工房の古いやつが好き、まあよく二百年も生き残ったものだ。そんなに売れないからどんどん増えていく、でも僕は買うのを止めない、こういう磁器が好きだから、増えていくのが嬉しい。

僕のお店はお客さんが少ない、三人も来れば多いほう、一人は普通、ゼロ人の日も多い。常連さんとの会話は楽しい、皆さん滞在時間が長いので結構色々と話す、そしてあっという間に夕方になっていたりする。少ないお客さんと濃く交わる今のスタイルが僕は結構気に入っている、体力も使うが決して悪い疲れ方ではない。お客さんのほうも、お茶を飲む、アンティークを観る、会話する、この三つの繰り返しで時間が過ぎて行く。マニュアルの世界、ロボットでは替えの利かない仕事、ときには、話す、観る、飲む、の三つが混じり合って不可分のような時間が生まれる、そういうときはお客さんもきっとそれを楽しんでくれている、そして何がしかの物を手に下げて満足して店を後にする。こういう接客が僕の理想だ。でもこれが普通に出来るようになるのに二十年は少なくとも要した気がする。

接客のコツはさしてない、淡々としていること、好きな人には優しく嫌いな人には冷たく、でも、感謝の気持ちは忘れないように、ユーモアも忘れずに、無理に物は勧めない、人と物も出逢い、人と人も出逢い、縁があれば出逢う。縁とは何だろう、分からないけど縁は確かにある、縁そのものを否定するのは難しい。僕は最近とみにジャズが好きだ、それも古い録音のやつが、ジャズは気取らないからいい、ジャズの音は生きることの音、古いジャズがいいのはスノビズムとは無縁だから、それがだんだんと気取った音楽になっていく、難しい顔して聴いたりし始めるともうダメ。大体何の趣味でもスノブ病に罹ると、スノブの為に存在するような具合になる。スノブはまあ謂わば「半可通」ということ、分かったような分かっていないような人達のこと。

春が来た、僕は今日店先の鉢の花を新しい物に替えた、枯れた植物をスコップで掻き出して新しいのを植えた。桜の木の大鉢に腐葉土を撒いた。春はいい、世の中が混沌としていても矢張り春はいい。繰り返してまた始まる春。春には小さくても希望がある。