19世紀終わり頃のイギリスのワイングラス(11,5 x 6,4 cm)、20世紀頭にPall Mall というところが作ったグラスがイギリスで大量に出回るが、これはそれよりも時代が少し前の物で、ガラスの生地質もそれよりもずっと良いし、グラスのボールの部分に上下エッチング模様の装飾が入っているがその間には細かいカットが入っていて、そのクオリティも高い。恐らく別の工房が作った物ではないかと思う。ガラス全体もしっかりとスリーピースで、フット、ステム、ボールの部分が別々に形成されている。地味な装飾のグラスだがクオリティが高いのだ、カット装飾の上下がエッチング模様になっているのも珍しい。ありそうで無いグラス、地味に変わっている物。地味に変わっていて質が良い、そう言うのがぼくの好み。因みに、よく見かけるPall Mall のグラスはガラスの色がもっとくすんでいます、これと並べたら色の違いが分かると思います。
東京の日本民藝館と福岡市立博物館の両方で民芸展が開かれていたので観に行って来た。感想は、フツー、だった。勿論、素晴らしい物も結構あった、バーナード・リーチのエッチングが観られたのも良かった、が、全体として感動と言うほどではなかった。今、民芸がブームらしいが、こういうものが今頃流行る一因は矢張り僕らの眼が可成り落ちている劣化しているのだな、という印象だ。並べられている物は素晴らしいのだが、何処かしら「軽い」印象を拭えない。ぼくはmingeiだなんて騒ぎ過ぎだと思う、kougeiも最近は変だしね。
柳宗悦の文章を最近よく読んでいる、とても素晴らしい。彼の死後その魂の百分の一がぼくに乗り移ったのではないかと思えるくらいぼくの考えていることは彼にとても近い。彼が死んだのは1961年、ぼくは62年生まれ、彼の魂の欠片がぼくに飛んできたのかもしれない。彼の文章を読んでいると自分の考えを読んでいるように思えるときがある、それくらい似ている、民芸展に行くと、これに似たのがぼくの店にも置いてあるな誰も買わないけど、と何度かぼくは思った。ぼくが民芸展に行って感動しなかったのはもっとスケールは大きいけれど自分に似た人間の展示を観ていたからかもしれない。柳宗悦の文章は素晴らしいし、晩年の彼は良い顔をしている、顔に品がある。本当に彼の言ってることはぼくには全く違和感が無いし、自分と彼が重なるのだ。不思議。別に過去の偉大な人にあやかりたいとかそんな気持ちは全く無い。本当に全くの唯の実感なのだ。だから、彼に憧れるとかそんな気持ちも起きない。
柳宗悦は茶道批判論の文章の中で千利休が神格化され利休が選んだ物を茶人たちが無批判に崇めていることを批判的に書いているが、その柳宗悦が今や利休同様に神格化されている、というのも大きな皮肉だろう。きっと彼はこの現象を天国から苦々しく思い眺めているだろう。そう言った意味でこれらの民芸展は彼の思うところとはズレていると思うのだ。
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