ゴールドとブルーのコーヒーカップ。

やや大きめのコーヒーカップとソーサー(カップ 高さ 6,8cm、口径 8cm、ソーサー 口径 14,8cm)、イギリス製、1830年頃、つまりヴィクトリア時代初期の物。焼きが甘いので半磁器といったところ、古いのでソーサーは深い、嘘みたいだが昔はソーサーに紅茶などを移して飲んだらしい。その頃はそれがバッドマナーではなかった。カップ内側の金彩の絵付けも細かくて綺麗、金色と深いブルーのコントラストも美しい。とても存在感のあるカップ、僕は好きだ。友人から仕入れた。

今日、WhatsApp(ラインと同じようなもの)でイギリスの友人ディーラーと話した。今年になってアンティークが売れないらしい、アンティークフェアーなどでも兎に角物が動かないそうだ、イギリスも経済が悪く矢張り庶民はお金を使わなくてなっているし、売れなければディーラーも廃業する人も出てくる、アンティークフェアー自体が消える場合もある、一番のお客さんだった中国人も減っているし、EU離脱も色んなところで影を落としていると思う。日本も似たような状況だろうが、東京ではロンドンのように二十代の女性が道路で物乞いをしているのは見掛けないし、治安の悪さでも日本はこれでもまだ良い方だろう。僕の知り合いはロンドンの北部でジュエリーのお店をやっているが何時黒人の若い子らがやって来て銃口を向けられるか分からないから店頭に物は余り並べてないらしい。高級腕時計をしてロンドンの街を歩けば、それは、襲って下さい僕お金持ってますから、と言ってるのと同じこと。

アンティークが売れなくなっているのは確かに事実だが、どうしてもなくては生きていけない「人種」がいるのも事実。デジタル社会で疲れた心の癒しを骨董や美しい物に求める人は少ないとはいえ一定数必ずいる。僕自身も九谷焼作家の須田青華の酒器でお酒を呑むときに感じる幸福感は他では得難いものだ。物に癒しを求めるのは人間の行き着く逃げ場、逃避行為の一つなのだろう。この世界とは相容れない自分を解放出来るのが唯一古い物や美しいものだったりするのだ。そういう少数の人達の為に僕はこの店をやっている、この店の存在の意味はそこにあるのだろう。変な表現かもしれないがそういった意味では僕の店なんかもある種のシェルターなのかもしれない。そんな気がするし、この言い方は大きく外れていない気がしている。