真夜中の読書、、。

午前三時、神坂次郎 著「今日われ生きてあり」を読み始める、特攻隊少年飛行兵達の記録、第一話の悲恋のところを読み終える、その時僕が取った行動。何と本を部屋の端に投げ飛ばした、のだ。何故か、自分でもよく分からない、若くして死んだ特攻兵の悲恋の悲しさ、彼の特筆すべき知性に満ちた遺書、恋人に遺した言葉、著者の作者としての視点に対する一抹の反発、この時代の愚かさに引き換え若者達の優秀なる歪な対称、この青年が恋人に遺した言葉の美なること、それら全てが混濁したまま、詰まり僕は頭に来て、文庫本を部屋の端に飛ばした。お前二十代かよ、と自分でも思いながら椅子から起きて本を拾いに行く、何ともバカなこと。

最近バッハが聴けない、グールドをかけたが直ぐにビリーホリデーに変える、単に肉声に飢えているのか。読書は難しい、読むにも本には色んな罠がありそれを嗅ぎ分けて読む訳だ。罠に掛からないように、下手に感動などしてはいけない、知性とは感動しないもの。知性は眼でありそれを曇らせてはいけない。

戦争で露と消えた優秀な若者の知性、それは今頃何処に何処かにあるのだろうか、と想う、さぞ悔しかっただろう。しかし、二十歳もいかないでこんな激しい恋をした女性、その彼女の経験した濃密で残酷な時間、恋人からこんなにも美しい言葉を貰い、そして彼は消えていく、彼が遺した物は煙草の吸いさしが二つ、こんな悲しいことがあるだろうか。

戦争は人の人生を蹂躙するだけだ。