ある方と話しているときにレストランの値段の話しになった、その方が日頃五、六千円のコース料理を提供するレストランが特別な素材を使い三万円近いコースを出すというので行かれたそうだ。ぼくはその話しを聞いていて思った、日頃千円単位の料理を出している人が特別な素材を使ったからといって急に万単位の物を提供しても上手くはいかないもの、だと。ものには「慣れ」というものがある、急にレベルを上げても上手くは運ばないし、何の商売でもそうだが物に付ける値段は提供する側の総合力だと思う。ぼくの商売で言えば、勿論いくらで仕入れた、経費の問題、物の希少性なども大きな要素だが、アンティークの場合は偽物もあればグレーゾーンの微妙な物もある、例えばネットで検索すると本物も偽物もグレーな物も全て「ホンモノ」として画面に現れる。こういう時代に店でアンティークを売ることの意味は、存在理由は、お客さんが求めているものとは何か。先ず店主の「眼」、ここで買えば間違いないという安心感、それと、アンティークの知識やそれに纏わる諸々の経験値、イギリスのアンティーク業界の知識、向こうでの人との繋がり、微妙な差異を見極められるに充分な経験的知識、その人自身の人間力、物に対する誠実な姿勢、など。その全てがあって初めて成立する「値段」なのだと思う。そのどれかが欠けてもダメなのだ。唯難しいのはそういった諸々の要素が揃うには二、三十年の時間が掛かるということだが、今のこのせっかちな時代では、一人の人間がそうやってお酒が熟すように成熟していくのを許してくれない、詰まりもっと分かりやすい数字に還元された安易な「結果」だけを求められる、時代が中々待ってくれないのだ。それは芸術や学術の世界でも同じだと思う。
成熟が許されず唯じわじわと老いていくだけの世界、怖いというか残酷な時代だと思う。本当の意味で「老いる」ことが許されない時代、「老成」という言葉は死語になったのだ。
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