変わったサイズの古いティーカップ

取っ手のないティーカップ&ソーサー(11,0 x 5,4 cm、15,7 x 3,2 cm)、イギリス製、1800年頃、この時代はまだ取っ手のないティーカップがあります。ソーサーにティーを移して飲んだりしていたのでソーサーも深めです。一応、貴族の紋章とモノグラム入り。それにしても大きいティーカップ、横のコープランドのコーヒーカップ(1890~1900年製)と比べると大きさが分かります、コープランドのカップはデミタスサイズではありますが。シュガーボールかと思うくらいの大きさ、でも矢張りティーカップですね。変わってます。貴族の紋章が入ってますが、こんな感じの紋章は新興貴族か、元々商人で儲けて貴族の称号を買ったとか、そんな裕福じゃないですね、頑張ってる感じがします。でも、モノグラムも入ってて、所有者の上昇志向が感じられます。俺たちも貴族なんだぞ、、という雰囲気。又は、元々裕福だったけど今はそうでもない、だけど貴族ですよ、という感じ。1800年頃は下手な貴族よりも産業革命とか奴隷貿易とか砂糖やタバコのプランテーションで儲けた商人のほうがリッチだったかもしれないし、商人もお金を充分儲けたら次に欲しいのは社会的地位や貴族の称号。まぁ、貴族もピンからキリまで色々あるということ。

イギリス、ブライトンのアンティークセンターに行ったとき何も買うものがなくて仕方なくジャック・ケルアックの小説「オン・ザ・ロード」を買ったのですが、今読んでます、とても良い、読むというより英語の音を楽しんでる感じ。翻訳で読もうとは思わない、この原文の音を日本語で再生出来るはずはないから。とても詩的だけれど、ブローティガンとは全く違う、ブローティガンはライフル銃ででっかい弾をボーンボーンと在らぬ方向に撃ってる感じだけど、ケルアックはピストルで細かい弾をダダダダダッと一応狙い定めて連射してる感じ。二人とも所謂インテリの文章じゃない、共に別様に独特な文体。噛み締めて味わうという点ではブローティガンの言葉のほうが好きだがケルアックの文体にも妙な魅力がある。

作家の言葉には既成のルールを破壊していくようなところがないと僕は魅力を感じない、そういう意味では作家はパンク(punk)であるべきだし、創造的破壊者であるべきだと思う。優等生的作家は詰まらない、破壊者を装う奴もダメ、腹立たしいだけ。今の日本にそんな匂いのする作家がいるだろうか、中上健次くらいが最後じゃないだろうか。

ある文芸評論家が言った言葉、(作家の)机が大きくなっていくにつれて(彼が書く)作品は段々小さくなる、至言だと思う。