蜘蛛も生きるのに懸命。

先日の夕方店の外に出て上を見上げると大きな蜘蛛がいた。大きな蜘蛛の巣を電線と松の木の間に掛け獲物を捕らえようとがんばっていた(最初の三枚の写真)、次の日の朝早く起きて外に出ると未だ蜘蛛はがんばっていて、少し離れて月と蜘蛛が並んで見えた。しかし、こんな小さな身体で、松の木と電線の間に巣を張ることを思いつくのか、上から俯瞰する訳でもないだろうに、この二つの物を繋いで巣を作ることをどうやって蜘蛛は理解したのだろうか、最初の糸の一本はどうやって張るのか、不思議だ。既に虫が一、二匹捕らえられていた。きっと人間には無い特殊なセンサーが蜘蛛にはあるのだろう。

話しは変わるが、知り合いやたまにお店に来る人に、どんどんお金回りが良くなり有名になっていく人がいる。特定の人を言ってる訳ではない、そんな人をたまに見掛ける、という話し。詰まり俗世的成功の階段を駆け上がっている人、小さい嘘をつきながら笑顔振りまいて計算高く抜け目なくそれでいて笑顔絶やさず、知らずのうちに人を値踏みし出方を調整し、腰は低く、それでいていざというときは決して容赦ない。皆んなではないがこういう人の顔、眼に光無く落ち着きない顔を見ていると、世間的には成功しつつあるのに、僕の眼には何かどんどんとダメになっていく人にしか見えない、堕ちていっているように見えるのだ。当然生活と交友は派手になる、見栄も張る。だんだんと皆んなが本当のことを誰も言ってくれず媚びへつらう者だけが残っていく。何時も人に囲まれているのにとても孤独。内心は不安でしょうがないのだ。僕はアドバイスしようかとも思うがそこまでの仲でなければお節介は避ける。

「分を知る」という言葉。自分の身の程を知り、それを超えたことはしない、ということ。僕が、堕ちてっている、と感じる人は皆、自分の身の程を超えようと必死になっているのだ。本人も心の底でそれを感じてるから不安だろうし、身に付けている高級品も何処か浮いて見えている。でも、調子に乗ると皆んな勘違いを起こすのだ。

分不相応なことはしない。これは僕が気を付けていることの一つ。単に見っともないから嫌なのだ。僕がもしお金を持ってしまい新車のベンツ乗って金沢で有名な先生にお茶を習い東山で芸者遊びでもしたら、それはもう僕ではないし、死んだも同然だろう。まあでもそんなことは起こらないから心配は無用。柄じゃないことには手を出さない、それが僕の生きるうえで気を付けていること。でも、お金があったら煎茶道具とか欲しいかな、、。一番欲しいのは銅鐸だけど、、まあ無理だな。