コッツウォルズの風景画(22 x 19 cm)、水彩画の小品、時代は1900~20年くらいだろうか。カメラでレンズ越しに絵を覗いていても、実際の景色を見ているような錯覚に襲われるくらいに良く描けていて、生きた絵だと感じる。そのとき吹いていた風すら感じられる気がする。
最近、明治生まれの中国文学者が書いたエッセイなどを読んでいる。今日も古本屋で講談社文芸文庫の奥野信太郎さんが書いた本を買った。明治生まれの人が書いたものは当時の東京の風情や、その当時の文学者、学者などの思い出話しも出て来て、それだけでも十分に楽しい。昔の本が楽しいのは、今の常識に照らすと不適切なことでも昔は平気で書けたということ、文学なんて基本社会的に不適切なことを含んでいる訳で、あれもいけないこれもいけないと言われ出したら何も書けないのは当然。昭和が終わる頃からこの、表現の自己規制は徐々に進んだように思う。
しかし何時までも暑い、今日何時ものお惣菜屋に行ったらおでんが売っていたので買った。後でビールでも飲みながら食べようと思う。何を食べるかは何時も適当だ、ただ最近は朝に五穀米の入ったご飯とお味噌汁(アマノフーズ)を食べるようにしている、そのせいか体調は良い。和菓子は前より控えるようにしている、本当は大好きなのだが。コーヒーは一日に一回は飲まないと落ち着かない、今日はイギリスで買って来たコーヒーバッグ(ティーバッグのような物)で飲んでいる。少し前からイギリスのスーパーで見かけるようになり、味もまあまあで悪くない。
ぼくの机にはリモージュの24金彩縁取りの小さな灰皿がある。金沢の有名な某老舗のご主人が生前に愛用されていたのを奥様から頂いた物、パイプの灰が溜まると綺麗に水洗いして大切に使っている。そうするのが故人に対する礼儀のような気がするのだ。又は一種の縁起担ぎのような感覚かもしれない。人から物を譲られるのはその物の背後にあるものをも受け継ぐようでこちらにも覚悟が生じる。
今日は誰も来ない、もう五時になる、昼間は近くのコーヒー屋でサボってしまった。花屋さんに行った帰りに古本屋を冷やかし又その帰りにコーヒー屋の前に知り合いがいたので立ち寄ってしまった次第、暇なときは焦らずのんびりやるしかない。ぼくの店みたいな変わった物を売る商売は売れても売れなくても同じ気持ちで日々過ごすしかない、店をこうやって続けていけるだけでも有り難いことなのだから。後三年で三十年目に突入する、更にレアなお店を目指したいと思う、ネットで色んな物が買える世の中で生き残るにはその真逆を行くしかない、お店の商品密度を更に上げていきたいと思う。「濃い店」にするのはいいけれど、一般受けしなくなり、売れ難くなるというリスクもある。実際当店のお客さんの地元率は低い、近所の人は、あの店よく潰れないな、と思われているかもしれない。
これからも「変わったお店」であり続けたいと思う、その為には自分も更に勉強しないといけないと思う。変わった物を商うには矢張りそれ相応の知識と説得力が必要なのだ、ただ物を置いていれば売れるという訳ではない。自分も上に上がる必要がある。
では、see you.
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