九月になり、、。

この間確かホームページで「文人趣味」について書いた後に、そうだ、自分が憧れる生活は中国の明時代や清朝初期の人が送ったような「文人的」生活なのだ、とふと思い、「文人」というものに対する自分の憧憬の念を確認した次第。だから僕が興味があるのは、茶道より煎茶だし、書、水墨画、南画、などに昔から惹かれている。ただ僕の場合は、その「文人趣味」が持つ雰囲気に憧れ、あくまでその周辺を彷徨いているだけ。でも、ぼくの好きな19世紀初頭のイギリス作家、チャールズ・ラムやトマス・ド・クインシーも文人的雰囲気を漂わせている。僕が職業作家に余り興味がないのもこの自分の中にある「文人趣味」に拠るのだろう。「文人」は書くことで積極的にお金や名声を得ようというのでもなく、世の中に対する諦念、諦めがあるわけで、そこと積極的に関わるのでもなく、趣味に耽溺してるのでもなく、出家でもなく、掴みどころのないポジションに立って暮らす人だ。日本で言えば浦上玉堂などもぼくからすると文人的存在だ、50歳で上級武士の身分を捨て脱藩し、琴と共に放浪した生き方は可成り特異である。

そう考えていくと今の自分のお店の在りようにも何処かしら「文人趣味」の微かな匂いがするはずである。正直に言うと、僕は野暮ったいものが嫌いである、田舎は好きだが田舎臭いものは嫌いだし、趣味人を気取るのは最低だが、「文人」の二文字には弱い。つげ義春さんのマンガ「無能の人」の主人公、川縁で石を売って暮らす男も、広く捉えれば文人的生き方なのかもしれない。いや、あそこまで行くと、最早「詩人」か。

何歳になっても憧れる対象があるのはいいことだ。憧れながら死にたいと思う。

(写真は寺島蔵人邸の茶室、玉堂もここでお茶を飲んだはずだ、玉堂は寺島邸に恐らく滞在していた。)