時差ボケの対処法

疲労と時差ボケで変な時間に寝たり起きたりしている、僕の対処法は無理しないことだ、眠たければ寝る、眠たくなければ何時だろうと起きている、そのうち自然と元に戻っていく。時差ボケの嫌なのは軽い嘔吐感を伴うことだ、何処と無く嘔吐感に近い疲労を感じる。それに集中力もない、精々ホームページ更新がいいところ、根を詰めて何かやる気にもなれない。

最近人をインタヴューして文章にしたい気持ちが強い、インタヴューしたい人が周りに何人かいるせいもあるが、長年生きて来た人の独特な人生について話しを聴くのはとても楽しい経験だ。その人の有名無名はインタヴューするのに殆ど関係が無い、この間インタヴューしたタケさんも僕のインタビューが「最初で最後」と言われていた。誰も覗き見たことのないある一人の人間の人生について話して貰うことは聴いているだけでもスリリングですらある。

勿論その人が話す時点でその人生は編集されている、それをまた僕がその中から取捨選択し再構成して皆さんの元に届く。インタヴューするときに僕は必ずこう言う、話したくないことは話さなくて結構ですので、と。僕は相手が嫌がることを無理強いしてあれこれ訊こうとは思わない、そんなことまでして文章にして何の意味があるだろう。話す側も聴く側も共に楽しいのが一番だ。それでも相手も興が乗るとつい喋ってしまうこともある。人の話を上手に引き出すにはこちらが上手く受け手に徹するのがよい。いや、嘘だ、インタヴューの録音を聴き返すと僕は相手に延々と自説を述べてたりして、自分はバカじゃないかと思うことがある。

ロンドンのアンティークディーラーでインタヴューの約束を取り付けていた男性がいたのだが彼もコロナ禍の時期に病気で亡くなり、僕のイギリスでの初インタヴューは幻になった。出来るときにしておかないとその人がこの世から去ればインタヴューは出来ない。でも文章にすればたとえそれが些細なものでもその人の生きた証しは言葉になって残る。ゼロではないのだ。

文章にして残せば一人の人間の人生の断片は残る、それはゼロではない。でも書かなければその人の生きた痕跡は永遠に消えるのだ。文章にして残すことで誰かに伝え、手渡すことが可能になる。書いてしまえばもうそれはゼロではないという事実は大きい。