オレンジーピンクのガラス小皿

オレンジーピンクのガラスの小皿(直径 15 cm)、イギリス製、19世紀終わり頃の物。ガラスは型吹きです。色が光で変わるので何とも言いようのないちょっと怪しい色なのですが、オレンジ色がかったピンクみたいな、不思議な色です。裏側から円状の型模様が入っています。これはこれで中々変わった物です。

先日若者が集まる近くのコーヒー屋でコーヒーを飲んでいたとき、僕の近くに若い女性が二人いて、店に背が高く手足の長い男の子が入って来たら、その女性がもう一人に言った言葉が、「めっちゃ外人過ぎ〜」。僕はそれを聞いて、驚くというか呆れる、日本語の乱れもここまでくると、ちょっと何も言えない、溜め息も出ない。最近僕の店界隈もこういう言葉喋る若い子が普通に沢山いる、そういう子が集って店が成り立ってる感じで、まぁそういう人達の言動が「普通」になってきている。僕は裏通りでひっそり商売してるので関係ないといえばそうなのだが、表に出て行くとそういう言葉が耳に飛び込んで来てびっくり。今週は、斎藤緑雨と樋口一葉との触れ合いなどについて読んでるので、こんな外の世界にはちょっと付いていけない。

言葉は時代と共に推移していくもの、とはいえ自分の中で受け付けない居心地の悪い言葉はあるし、言葉を雑に扱う人、詰まり「軽い」人種とはどうしても距離を置いてしまう。最近、若い人が来店して、アンティーク屋巡りが好きで、とか言われても、彼らの言う「アンティーク」はヴィンテージ雑貨くらいの感覚のこともあるので、そのつもりで話さないと拍子抜けすることになる。本当に本が好きな人が軽々しく、本が好きで、と言わないように、本当に古い物が好きな人は軽々しく「好き」という言葉は発しないように思う。「好き」とか「こだわり」という言葉も随分軽く使われているので、かえってこちらが使うのが恥ずかしく憚られるくらいだ。自分を推し量る、ということを今の人はしなくなったような気がする。自分を推し量り、それを自分の行動に当て嵌め立ち止まり考える、そんな価値観のようなものがすっかり消えたような気がするのだ。遠慮とか躊躇とか待つとか、そんな気持ちの背後にあった美徳のようなものが消えてしまった気がする。

少し話しが違うが、拝金的ものの考え方がここまで世の隅々に行き渡ると、人間に本来あった色んな美感は消えるものなのだ。お金があれば勝ち、権力あれば勝ち、という下品な世界。またそんな輩に追従する俗な人々、権威を利用していることにすら自覚の無い無知性な人間。

次回はもっと楽しいことを書きたいと思う。