この十年。

この十年の劣化を思うときがある、職人さんの仕事、専門店の店員、専門職に就く人の仕事などを見ていると、本当にプロと呼べる人がこの世から消えつつあるんだ、と感じる。別の見方をすれば、人が育っていない、と言ってもいいだろう。最近の風潮では、人をきつく怒ったりたしなめたりも出来ないようだが、人を育てるとは、怒るべきときはしっかり怒ってやること、ただそれは基本優しさでもあるのだが、人はときには叩かれないと育たない、のだ。人を真剣に怒るのは、その人を将来を思う故である、唯、こう何でもかんでもハラスメントだとか言われ似非の平等を振りかざされると、人が人に言えることも可成り限られてくる。

そういえば、街などで他人の非常識な言動をたしなめることも皆しなくなったのではないだろうか。兎に角他人には関わらない、見て見ぬ振りの世の中。僕自身は他人の行動にちょっかい出して介入するほうだが、それでも最近は見ても言わないことも増えている。今の若い人は昔みたいに知らないおじさんおばさんに怒られた経験はほぼないだろう。

僕は他人の間違いや良くないところを(その人のことを思って)はっきり言う傾向があるので、ときに嫌われたり嫌がられたりする。お節介なのだ。出身が九州だということも多少関係あると思う、九州の人はお節介だ、金沢はお上品に冷たく下手にお節介はしない。人の為を思い何か言ったところで、その思いは相手に上手く伝わらず捻じ曲げられて、関係が悪くなることも多い、まぁそんなものだ。

ここまで人と人とが密な接触を避け唯スマホに噛り付いている世の中。物語の生まれない殺伐とした世界。人は人で育つ。スマホを幼い子供に与え始終弄らせている親。物語の有無は集団の精神に関わる重要なものを含んでいる。セレンディピティはネットの世界にもある、と言った奴がいるがこれはとんでもない嘘。ネット世界はもっと巧妙にずる賢く管理、制御されている。

僕はある種の「反乱」を密かに期待している。恐らくそんなことは起きないだろうが、徐々に人がスマホ無しの生活を自発的に始めるようにならないか、そんな近未来を夢見ている。今年の春に訪れたベルリンの街ではスマホを持ってない人も多く、ゆったりと時間の流れが遅いように感じられた。それと比べると東京の地下鉄の光景は異常だ、殺伐そのもの、毎日乗っていれば慣れるのかもしれないが、ロンドンの地下鉄のほうが未だ幾分マシだ。ロンドンの地下鉄は時々何処か一点を見詰め物思いに耽る人を見掛けるが、東京はスマホか疲れて寝てるかの人が殆ど。電車やバスで窓の外の景色を見詰める人、そんなときの顔は魅力的に見える、顔に物語があるのだ。

そう、今の街行く人の顔には余りにも物語が欠落してしまっているのだ。