無音の魅力

最近夜部屋にいても余り音楽をかけなくなった、音の無いのが心地良いし、書いたり読んだりするときは言葉のリズムを味わうのに邪魔になるので音楽は無いほうがいい。今これを書いていて聞こえてくるのはファンヒーターから吐き出される低速運転のポッポッポッという静かな音だけ。クラシックの演奏も古楽器の音のほうが古雅な響きで落ち着く。読書も意味もなく難しい言葉を使った文章は疲れるので読まないし、人と無意味な口論は出来るだけ避けている。色んな言い方が出来るだろうが今の僕は「余白」にとても惹かれる、昔のジャズが好きなのもその演奏スタイルの「余白」故だ。高級な料理でも余り自己主張されると食べる前から疲れるし、ならサイゼリアで百円の白ワイン飲みながら海老の前菜でも頼んで摘んでるほうがハッピーだ。

「余白」を許さない社会は見せかけの「余白」で溢れている、「余白」の無い日々で過ぎていく人生。般若心経には「無」が沢山出てくる、それは「無」の為に書かれたようなお経だ。「余白」の奥には「無」が潜んでいる、「無」の欠片が。

「余白」無き世界は少しずつ確実に破滅に向かう、人は消費され消耗しながら死んでいく。偽物の「余白」の奥に覗いてるのはなんてことはないちっぽけな欲得、だ。

「余白」の奥にある闇を見詰めなければ何も始まらないし、「余白」を見極めることも出来はしない。「余白」はアナログの世界にしか育たないし、それを知覚出来るのは矢張り人間でしかない。それは悲しさでもある。