九州の神社

僕が帰省すると必ず行く神社がある、父が眠るお寺の近くにある「阿蘇神社」。塚田という村にある。この場所の空気が好きでお参りに行く。昔は母を連れて良く行ったのだが今は一人で行く。こういう神社に来ると、神社とは本来異界なのだと強く思う。ここに初めて足を運んだときも手を合わせ拝んでいたら、僕の後ろで小さな蛇が鎌首もたげて僕のほうを見ていた、ということもあった。それ以来ここで蛇は見ていない。

明治時代に政府は多くの神社を潰し、役人がその敷地内の木材を売り払って私腹を肥やしたりしていたそうだ。南方熊楠がこの政府の動きに大きく反対を唱えていたのは有名な話しだ。杜には泉があり、そこは神域であるというのは日本古来の感覚であるし、僕もそう信じている。神道は明治以降のバカな政治家に政治利用されたりして変なイメージも付き纏うが、本来はもっと原始的な素晴らしいものだと思う。初期の神社には建物は無い、有るのは杜と泉と祠。沖縄の御嶽(うたき)みたいなイメージだと思う。それと、鏡も重要な働きを為している。

神社は探すものではなく出逢うもの、縁の世界だ。知性にも色んな形があるがこんな、異界と連なる知の有り様もとても大切にしないといけないと思う。現世に生きる僕たちの片足は何時も異界にある、のだから。だから、と言うか僕は最近とみに、歪な知性、が嫌いであるし、有害であるとも思う。今の僕らの「知」とは所詮明治以降の近代化の為の「舶来品」がベースになっている。

自然に対する畏怖の念を欠いた人間は醜悪だと思う。