古代エジプトの壺

前回仕入れた古代エジプトの壺(高さ 11,5 cm)、今から凡そ六千年前(BC4000年頃)の物。1970年代にイギリスの某有名オークションハウスで売りに出された物で、今はもうエジプトでも国外には持ち出せないらしい。去年仕入れていたのだが下に嵌める台を貰って来るのを忘れ、今回の渡英で台を貰って来たのでやっとこうやって展示出来るようになった。写真でどれだけ上手に撮れているかは分からないが兎に角美しい。観て飽きないとは正にこの様な物を言うのだと思う。

今日古本屋で「近世随想集」(岩波書店、初版 昭和40年)を買った。田能村竹田(ちくでん)の「山中人饒舌」を読もうと思ったからだ。近世画家の竹田については偶に拾い読みするので「山中人饒舌」の名前は知ってはいたが読んだことはなかった。竹田三十七歳(1813年)のときに脱稿した画論(?)である。今その解説を読んでいるがとても興味深い。竹田が言うには、今(といっても二百年前)の画家、書家は自分の才能を見せびらかそうとして書や絵をかく、詰まり彼らには市気匠気(どうだ俺のかいたのは凄いだろ上手いだろという気持ち)がある、媚びへつらう気分があるから書いたものが卑俗になる。その市気匠気を去るには万巻の書を読むとよい、と言っているらしい。書を多く読めば、書巻の気上昇して市俗の気が下降する、そうだ。今現代の書家の字や絵が見るに堪えないのは、もしかするとそういうところに原因があるのかもしれない。富岡鉄斎も物凄い読書家で確か自分のことを画家ではなく学者だと言っていた筈だ。鉄斎の絵も素晴らしい。自慢たらしい絵や書は確かに醜い、醜悪だ。

蒸し暑くて仕入れた物の整理をしないといけないのだが今ひとつ気分が乗らない。常連さんが来られて新しく仕入れた物を手に取り、いくらですか〜、と訊かれても、う〜ん、x万円くらいですかね、多分、といった状態。店はアンティークで既に一杯。並べる場所も無い状態。先ずは古い物を奥にしまってスペース作りましょう、、という感じ。

今回の仕入れは絵が多いですね。どうぞお越し下さい。