デミタスサイズのカップ、中村元風(非売品)

デミタスサイズのカップ三つ、金彩の変わった持ち手の物、イギリス製、1900年頃、ウェッジウッドかもしれない(工房マークが浅くて不明)。丸っこい花柄の物、マイセン、19世紀後半、筒型のカップ、ドレスデン、1900年頃。兎の盃は九谷焼、九谷作家、中村元風の作(非売品)。兎の盃は今日ある方に頂いたのですが、上質の素敵な物だったので思わず一緒に撮りました。この九谷焼の作家、僕は不勉強で知りませんでしたが、下さった方に教えて頂きました。これは私物なので非売です。九谷の上物ですね。

僕は今日本の新聞取っていないので専らネットニュースが日本の事に関しては情報源です、取りたい新聞がないからしょうがない、ニューヨークタイムズをチマチマと読んではいますがね。日本の新聞より紙面が美しいのが購読してる一番の理由ですね。昨日かな、ネットニュースに日本の首相がウクライナに行き「必勝しゃもじ」をゼレンスキー氏に贈ったとあった。こんな馬鹿げて失礼極まりない贈り物があるんでしょうか。驚きで言葉も無いですね、戦争で命賭けて生きてる人々に「必勝しゃもじ」をあげる感覚。本当に日本の首相、バカじゃないでしょうか。まあこういうのは政治パフォーマンスですからね、でもね、とても人を他国を馬鹿にしている。でなきゃ、相当に感覚がイカレテル人ですよ。こんな国に住んでるのが恥ずかしい、と思う。何処かで読みましたが国会議員のコロナワクチン接種率はとても低いらしい。国民に打て打てと勧めながら自分達は打たない。ワクチンにも出来の良いやつと悪いやつがあるらしい、そういう情報を恐らく彼らは国民よりも遥かに知っていて、ワクチン打っていないんです。僕は意識的に政治と宗教団体には近づかないようにしてるんです、マルクス主義の本もフロイトの本もデカルトも意識して遠ざけています。本は読みますがマルクスは読まない、デカルト読むくらいならニーチェかキルケゴール読みますし、フロイトよりはウィリアム・ジェイムス読みますね。僕は高三の時、一時的に右翼系宗教団体にハマっていて受験勉強そっちのけで「お国のために死ぬこと」を考えていたのに、高三の冬、センター試験そっちのけでその宗教団体の高校生向けの合宿に行ったら自民党系の大物議員が出てきて喋り出した。僕はもっと純粋な思想めいたものに憧れていたのに、その議員の顔見て、なんだ、宗教って言いながら結局政治か選挙か、ととてもシラけてそこから抜けました。抜けたら受験も終わっていた、というタイミング。作家の江藤淳を呼んで勉強会していた大学生の活動家に和紙の巻き紙に墨で書いた、幕末の志士みたいな手紙を貰ったのを鮮明に記憶しています。その後一年浪人しても勉強には身は入らず琉球大学英文科に入り元左翼系活動家が経営する古本屋でバイトしてました。毎日チェ・ゲバラが描かれた黄色い戸板を外して店を開けて。沖縄に行ってからは「日本」という国を突き放して見るようになり、加害者としての日本、権力というものについても考えました。沖縄に行くと、一度は必ず自分が日本人、ヤマトンチューであることに悩むんですよ。僕は「民族」とか「アイデンティティ」という言葉も意識して使いませんからなんと書いていいのかちょっと困りますが、兎に角自分が日本人であることが刃のように突き刺さって来るんです。僕を「民族」という言葉から解放してくれたのはフランス文学者の鈴木道彦さんの本です。まあ自分なりに色んなことを相対化していく。在日問題とか沖縄基地問題とか、原発問題とか、そういったものから全く離れて生きることは不可能なんです。逃げられないんです。

以上のような過去があって僕は「必勝しゃもじ」のニュースにとても苛立ったのです。僕はこれからも政治と宗教団体には関わりません。沖縄時代は臨済宗の坊さんともケンカしたので座禅も結構です、しません。ケンカの理由は彼が女性差別をしたから(禅宗は基本男性社会ですから)僕は頭にきて禅堂を出ました。凡庸な坊さんはある意味有害です。

若い頃に比べたら丸くはなりましたが、でも余り丸くなってはいけないですね。

僕は高校も大学も(中退)も全く勉強しませんでしたが、そこには自分の欲しいもの、その僕の強い希求心に応えてくれるものが見つからなかった、宗教団体にも失望、大学にもガッカリ、受験勉強は五分で眠くなる、座禅もしてみたが坊主とケンカで終わり。この時期のことを昔「そらあるき」という冊子に「F」というタイトルでエッセイ書いたら、昭和期の某有名な俳人の娘で某有名大学で哲学教授をしていた人が店にやって来て、貴方は大学を馬鹿にしてる、と僕に向かって人差し指突き立てながら延々とご不満を爆発させる、ということもありました。僕は終始無言でした。相手にするに及びませんよ。

と、僕の熱い(?)二十代の話しでした。