3/14(火)休みます、すみません。九州に帰省します、二年前に交通事故に遭った母は今は僕の従兄弟が事務長を務める施設で平和に暮らしてますが、矢張り色々と片付けなければならないことがあり、年に数回は帰省しなければなりません。この二年は裁判、保険会社との交渉、書類のやり取りなどで何度も帰省しました。今振り返ればトンネルの中にいるような二年でしたね、そのときはそんなに暗いという自覚は無かったように思いますが振り返ると、ダークでしたね、割と。母の急にいなくなった家に一人で過ごすのが最初は嫌でしたね、今はもう慣れました。母が事故に遭い横断歩道で車に跳ね飛ばされたのが二月十六日の午後四時頃、何も知らない僕は丁度その日のその時間、母を驚かそうと母に黙って九州に帰省の途中だったのです。コロナのせいで一年二ヶ月振りに母に会いに行こうとした正にその日に母は事故に遭ったのです。丁度僕がバスで小松空港に向かってる頃母は事故に遭ったのです。僕はコロナもあるので実家には泊まらず駅前のホテルを予約してました、日田に着いたら母に電話を掛けビックリさせ、一緒にファミレスにでも行きお小遣いでも渡そうと考えてました。福岡空港に着くと従姉妹から電話があり、母が車に跳ねられ救急車で病院に運ばれた、とのこと。急いで高速バスとタクシーを乗り継いで病院に向かいましたがもう其処に母はいず、加害者が会社の人に付き添われているだけでした。本当に申し訳ありませんでした、と頭を下げられて、僕何と返したと思います、こちらこそ!、って言ったんですよ。全く何が起きたのか分からないまま呆然としてましたね。こんなドラマみたいなタイミングで身内が事故に遭うなんてことがあるんですね、この、自分が十四ヶ月振りに帰ろうとしてたその日に母が事故に遭った、という偶然の悪戯から立ち直るのにとても時間を要しました。よくドラマなどで有り得ないタイミングで不幸なことが起こったりすると、上手く出来過ぎね、なんて思いますが、そんなことが自分の身に起こったのです。
僕はその日金沢を出る前に母に電話を掛けるつもりでした、今日帰るとは言わずに何となく掛けようと、思っていたのです。それが準備に忙しく掛けなかった。掛けてれば、もし掛けてれば母のその日の行動が一、二分ずれて母は屹と事故に遭わないで済んだだろう、何度も僕はそのことを考えました。自分を責めたというのともちょっと違うけど。
時間が経てば大抵のことは変容して流れ始めるのです。自分の感情、特に怒りのコントロールを学んだように思います。怒りが癒えるのにも時間が掛かりますね。
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