コーヒーカップとジングラス

イギリス、1800〜1820年のコーヒーカップ(タテ6,2 x ヨコ6,7 cm)とジングラス(7,0 x 6,1 cm)、コーヒーカップはソーサーとティーカップとのトリオだった物の一部です。ジングラスはフット(脚)が八角形のカットで裏側は型模様の入った結構珍しい物です。両方気に入ってます、特にグラスは余り売りたくないと感じるくらいのお気に入り。

時々行ってた飲食店が少し前から雰囲気が変わり、一部常連の好きな音楽を大音量でかけ、内輪だけで盛り上がり、ちょっとヤバイ感じになっています。僕の経験ではお店はこんな感じになって来ると客層が低下し、お客の足が遠のき、やがて閉店に追い込まれる、可能性があります。飲食店はコロナでただでさえ大変な時期なのに、内向きの雰囲気が漂って来ると不味いです。四月からマスク無しで過ごせるようになり、やっと「普通」の生活に戻れるようですが、僕たち個人でお店を営む者にとっては長い三年でしたね、僕がこの三年心掛けていたのは「変わらない」ことです、以前と同じように店を毎日開けて今迄と同じように接客する。置いている商品(アンティーク)もレベルを上げることはあってもあくまで路線を変えず同じように変わらない。個人的にはこの三年、イギリス18世紀のグラスとシルバーに対する情熱を再確認したような感じです。19世紀初頭も含め、この時代に対する強い気持ちを育てて来ました。物だけでなく、この時代のイギリスの作家、ド・クインシーやチャールズ・ラムに対する強い興味が芽生えたのもこの三年のことでした。アンティークもそうですが、文学もその国のある時代に触れ続け慣れて来ると、時代の匂い、みたいなものが分かってきます。自分をその時代に寄せていくようなところがありますし、それは単なる憧れ以上のものです。ただ、その時代に近づけば、その分今自分が生きている時代に対する違和感も増していきます。まあ仕方ないことですが、、。

今、昔の岩波新書で「徒然草を読む」(永積安明 著)という本を読んでいます。難しくもあるけれど面白いです。僕はどうも随筆、エッセーというものが好きみたいで、この本は二十代のときに買っておいたのを先日九州の実家から持って来たのです。若い頃にはこの本の良さは自分には到底分かりませんでしたね。やっと今になって読める感じです。本も音楽も絵も骨董もその時には分からず、何年も何十年も良さが分かるまでに時間を要することがあります。特に一見普通に見える聴こえるもの程難しい、一見なんでも無いように見えて実はとても深いもの。中国の昔の書なども正にそれで、捉えどころのない深さがある。ホッパーの絵も僕は良さが分かるまでに時間がかかりました、イギリスの18世紀初頭のシルバースプーンなども一見普通で見逃してしまいがち、難しい。

普通、一見の普通さが一番深く難しい。そう感じる昨今です。