1810~20年のジングラス

イギリス、1810~20年のジングラス(高さ 6,6 cm、上部直径 4,0 cm)。このボール(お酒を入れる部分)の形をダブル・オージーと言い割と珍しい物です。派手さはないけれど渋いグラスです。何時見ても飽きが来ません。個人的にとても好きなグラスです。ボール部分の装飾はカットです。

先週九州に帰ってました。施設に入ってる母のこととか、諸々の用事を済ませるのに帰省しました。行きに福岡に寄って福岡県立美術館でやっていた「高島野十郎展」を観て来ました。高島野十郎は1890年生まれの久留米近郊出身の画家、野十郎の兄は詩人で青木繁の友人だったそうです。野十郎は近代日本の中では僕が最も好きな画家です。と言うか、彼は今でも過小評価され過ぎで、今でも彼を知る人は美術系の人でも少ないですね。生前はほぼ無名の画家で、晩年は千葉の山中にガス、水道、電気、全て無しの小屋を建て、画壇との交流も無く、正しく孤高という形容に相応しい人生を送りました。彼の名が全国に知られるようになるのは80年代以降です。僕は2005年に福岡県立美術館であった野十郎展に行ったので、彼の絵をまとめて観るのは十七年振りでした。今回は彼の晩年作の「月」にいたく感動しました。フェルメールの「ミルクを注ぐ女」をアムステルダムで初めて観たときと同じく、正に、絵に摑まれた、感じでした。観た瞬間に動けなくなる、んです。僕は絵は今まで沢山観て来たけどそんなことって殆どないんです。「月」は本当に荘厳な絵でした。絵の前に立ってそのまま目を閉じてもその絵が観える気がするんです、心でそれを観てる気がする。月の光を浴びている感覚が目を閉じていてもある、のです。とても不思議な絵です。野十郎は、この絵で闇を描こうとした、と言ったそうです。

彼の絵が余り有名にならない理由の一つは彼の絵には分かり易いところが殆どない、ことでしょうか。玄人好みと言うのとも少し違う気がしますが、兎に角、暗くて地味で取っ付きにくい絵ですね。芸術家が有名になるには分かり易さが大切です。又はステレオタイプ的な逸話に事欠かないことも重要な要素です。上手くプロデュースして分かり易いものの如く仕立て上げることで有名になるケースもあります。オランダの画家フェルメールもその例だと思います。フェルメールの絵は実はとても分かり難いものです。例として誰を挙げてもいいのですが、ピカソ、クリムト、シャガール、クレーなど実際よりも過大に人気のある画家は近代にも多いと思います。僕個人の趣味もありますが、モランディやボナールのほうが遥かに深い作家だと思いますし、ボナールなんか観てると坂本繁二郎のほうが更に良いようにも感じます。アメリカ人ですがホッパーも深そうですね、未だ本物の絵は観てませんが。ゴッホは色付きよりもデッサンが素晴らしくて好きです。

まあ、有名であることと作家の素晴らしさには比例関係は無い、ということですね。物書きもそうですね、有名でも、特に現代作家は、ゴミみたいなのが沢山います。唯、アンティークと同じで物書きも時間が経てばある程度淘汰されますが。工芸家もそうですね、下手くそでもプロデュース力と営業力でエライ作家のフリで売れて儲かってるのもいますし、とてもいい作家で技術があっても売れずに地味にやってる人もいます。

まあどの世界、業界でも本当にものの分かる人はほんの少しで、殆どの人がワカラナイままにワカッタフリして回ってるのがギョーカイなんです。昔からそうなんです、きっと。

儲けようと思ったらワカリヤスサの調味料をササット振り掛けるんです。それで、丸い黒眼鏡掛けてヒゲ生やして黒い服着て無駄なこと喋らず立ってればいい、そしてアチコチで美味しいご飯を誰彼と食べ八方美人の笑顔で営業。自分をステレオタイプに落とし込むんです。

壮大な誤解とスノビズムで回ってるのがギョーカイだと思います。それに伍すことを潔しとしない人はギョーカイの外れで生きるしかないですね。運と才能と気力があれば野十郎のように孤高にもなれるかもしれませんがね。