フランスのデザートスプーン

フランス19世紀終わり頃のシルバーのデザートスプーン(140mm)、持ち手裏側にモノグラムが入っています。この時代は紋章などの装飾は殆ど表に入れると思うのですが、18世紀風に、スプーンをテーブルにセッティングするとき、裏側を表に向けて置いたのでしょう。18世紀のスプーンの様なディテールの細やかさはありませんが、魅力的なシルバースプーンです、本当に。

一週間九州に帰ってました。母を特別養護老人ホームに転院させるための帰省でした。母が転院した二日後、それまで居た大分市南部の施設は震度5強の地震に遭いました。大分県にオミクロン広がりつつあるなか、車椅子の母を介護車両に乗せ高速道路で従姉妹と二人、大分市から母の故郷日田市に移動しました。今度入った特養のホームは事務長がぼくの従兄弟、母の義理の甥なんです。交通事故に遭ってからほぼ一年、母は病院を七つも移り変わりながらやっとここまで辿り着いたのです。長い旅でした。母にとっては恐らく悪夢を観てるような一年だったと思います。横断歩道を渡っているときに後ろから跳ね飛ばされ、生死を彷徨い、一時は精神病院にも入れられ、今でも意思の疎通は殆ど出来ません。ただ、二年半ぶりに会うぼくのことは一応分かっている、ようです。時々虚ろな表情で在らぬ方を向いたまま、ますお(ぼくの名前)が・・・・・、と意味不明な言葉を発します。ぼくが近くから大声で、オカアサン、オカアサン、ワカルカイ、ボク、マスオダヨ、ワカル、と何度も繰り返すと、ぼくの手を握ったまま、その手の甲に爪を立てながら子供のようにモジモジ動かします。痛い痛い。それがぼくと母の唯一のコミュニケーションです。ぼくのほうは見ずに変わらず斜め下を涙目のような弱々しい目で見遣ったまま。ただ、母の手の温もりはしっかり感じました。言葉とか視線はないからあるのは、手の甲に食い込んだ母の爪の痛さと温もりだけ。ぼくは、自分が泣くかな、とも思ったけれど、涙出ませんでしたね。とても悲しいけれど、どこか滑稽な光景でもありましたこの状況は。それからぼくは左の手で、全く白くなった母の頭を何度も撫でてあげました。それは、今目の前にいる母にではなく、その向こうにいる遠い母に向けて。撫でたのです。何度も何度も。その間も母は無反応でただじっとしています。今これ書いてると涙滲んで来ますね。嬉しくもありました。色々辛いことあったけど、こうやって親子でスキンシップ出来た訳です。その時の写真を最後に一枚掲載させて下さい。すみません、、いい写真だと思います。でもやっぱり悲しいですね。