イギリス、1820年頃のフィンガー・ボール(12,0 x 8,6 cm)。大きさは大きめの抹茶碗をイメージして頂いたら実際に近いと思う。深くて綺麗なグリーン色。金彩も無く、この色だけが尚更美しい。形は本当に抹茶碗みたいだ。これくらい古い色ガラスのフィンガー・ボールは割と珍しい。これに小さめの上生菓子を入れて出されたらいいだろうな、なんて想像してみる。
最近、ジャズばかり聴いてる影響なのか、普通のクラシック音楽が聴けなくなりつつある。聴く側に緊張を強いるような音数の多いやつとか、ちょっとスノビッシュな演奏とか、絢爛豪華な演奏とか。聴けない、疲れてしまう。今かかってるのはヴァイスのリュート組曲、演奏者は佐藤豊彦さんでバロック・リュートを弾いている。1979年の録音なので結構古い。読めない本も増えてきた、今の小説家(もどき)の本も無理だし、理屈捏ねくり回して、難しいこと一杯並べてるのも、クラシックと同じで疲れる。自分の頭がそんなに上等に出来てないせいもあるだろうが、理屈の為の理屈みたいな本はぼくには要らない。それでも世の中には読みたい本が山ほどある。最近手を付けてるのがトマス・ド・クインシーの「阿片常習者の告白」(岩波文庫)。とても興味深く読んでいる。ド・クインシーは1785年生まれのイギリス人で主にイングランド北東部に暮らし、最後はエジンバラに移り永住している。ぼくはこの時代のイギリス、しかも彼が暮らした都市、地域に前世で暮らしてたと信じているので、それも手伝って、このド・クインシーの本は他人事ではない。エジンバラにロンドンから電車で着いて、駅舎に降りると何時も、あぁ帰って来たよ、、と心で思う。ヨークの駅舎にも既視感のようなものを感じるし、その感覚は、魂の記憶、とでも呼びたいものだ。逆にロンドンには何時もいるのにそのような感覚が湧くことは殆どない。エジンバラは何時も二日か三日くらいしか居ないが本当に落ち着く。自分の街だなとも思う。金沢は長いこと暮らしているが、今でも何処と無く、しっくりこないものを若干だが感じるときもある。きっと自分が日本人に向いてないせいだろう。海外にいるときも日本食に対する郷愁は殆どない。だが例外はあり、昔アイルランドに居たとき、餡子が死ぬほど食べたくて夢にまで餡子が出て来た。教えていた日本人学校のご父兄の奥様がホームパーティを開かれたとき餡子のお餅をぼくのために作ってくださったことを今も覚えている。三十年前のことだ。
さてこれが今年最後の記事になると思う。このブログのコーナーが果たして面白いのかどうかは書いてるぼくには分からない。これを読まれている方の中には「フェルメール」に来たこともなければぼくに会ったこともない人もいるだろう。このブログを読んで頂いて、行ってみたいな、と思って頂けたら嬉しいが、そのような営業意識もこれを書いてるぼくには希薄だ。まあ要するに、ぼくは根っからの商売人にはなれない、ということ。それはこれからも変わらないと思う。
では皆さん、A Happy New Year.
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