1810~20年のコーヒーカップ

1810〜20年のイギリスのコーヒーカップ(6,2 x 7,0 cm)、元々はティーカップとソーサーの三点セットがばらけた物です。犬の絵が構図も良く良いですね。プリントですが良く描けています。犬の絵のコーヒーカップでこの時代のは余り見ないです。

最近よく夜中にこのサイト更新しますね。なんか落ち着くんです、こんな時間誰も来る訳もないし、一人シコシコ文章打って、何処と無く楽しいですし仕事してるという意識は薄い。一人遊びしてる感じ。僕、一人っ子だったので一人って割と好きなんです。昔学生のときに家庭教師先でそこのお母さんが子供達にご飯作ってくれて、それを食卓真ん中の大皿にバーンって盛ったら子供三人が一斉にがっついて奪い合いになり、僕は子供達の勢いにちょっとびっくり。小さいとき何時も一人でご飯食べてたので、奪い合って食べたことなんてなかった。へぇ、こうやって食べるんだな普通は、という驚き。僕の家は父が仕事で家に殆ど居なくて、帰って来るのは月に数日程度。だから母と二人だけで食べてた、母の仕事場の愚痴など聞きながら、ふーん、女の人ってこんなこと考えるんだ、なんて白け半分思いながら。母は僕を子供と思っていないのか、普通子供には喋らないようなことも割と明け透けに、父が帰る日が近づくと憂鬱そうにして喋る。父が子供が嫌いで、僕が本当は堕ろされる予定で母は父に内緒で産んだことなんかも僕は母から聞いて、もう多分中学のときは知っていた。それを隠さず息子に話す母もどうかと思ってたけど、産まれてからは一転僕は父に溺愛される。でも父は父親を上手く演じることが苦手で、親子らしい会話などせずに父は死に父子関係は終わった。母は昭和八年生まれで、戦争に突入する直前に父が病気で亡くなり、困窮し学校も満足に行けず、その子供時代の苦労話を何時も聞かされるのが僕は嫌だった。何故か。その話をすると母は、だからあんたは勉強頑張らんといけんよ、と締めくくるのでそれが嫌だった。僕の中では母の子供時代の苦労と僕の勉強は関係無いことで、何でそこが結びつくの、という感じだった。確かに勉強はしてなかったが。

家族関係なんて程度の差はあれ大体歪んでいる、というのが僕の実感だ。そう思っている僕が先ず歪んでるのだろう。そんな気がする。でも、父に父の父の話しを聞くとそこも十分歪んでるし、その前の代も歪んでるようだし、一度捻れたスプーンは中々元に戻らないように、捻れは代々引き継がれていく気がするのだが、矢張り捻くれた見方だろうか。