今母のことで九州に帰省しています。今日、母とリモート面会をしましたが脳挫傷の後遺症と痩せたことで、変わり果てた姿でした。ぼくのことも分かってるようなないような、そんな反応。写真は幼稚園の頃の母とぼく。自分で言うのも何ですが、ぼく可愛い顔してます。この頃は父と母の仲がとても悪く、確か別居してた時期。ぼくもこの頃は暗かったせいか、日常の記憶は少ないですね、母は街中で食堂を経営しててお手伝いの二十歳くらいの女性が一緒に住み込みで働いていて、この写真はその当時借りてた食堂兼自宅の裏庭。恐らくこの写真を撮ったのは、さぎりちゃんという名前の、その女性。家族縁の薄い子で母が娘のように可愛がってましたね。父じゃないと思います、写真撮ったのは。あの頃は、そんな家族で写真を撮るなんていう雰囲気じゃなかった。一家団欒なんてとんでもない、そんなのテレビのCM以外見たことありません、と言うくらい無縁状態。兎に角、父母は会えばケンカ、ケンカの連続、ぼくは泣きながら近くの叔母の家に黒電話で電話してSOSしてた記憶があります。こんなときにこんな母との写真を見るのは複雑な気持ちですが、まあいいんじゃないですか、自分の気持ちなんてそう大したもんじゃない。ぼくは自分の気持ちにしがみ付くの嫌いなんです。
母がやってた食堂は僕たち家族が福岡に引っ越すまでの三年半位の短い間でしたが、母は愛想良く明るい性格だったので流行ってました。ある夜食堂の客同士の男が店の外で大げんかをした記憶があります。大男と小男、二人とも職人風で、小さいほうが何か凶器になるような物を手にして、大男のほうが自転車を持ち上げその小男に振り下ろし、小男が血だらけになり警察が来て大騒ぎになった。そんなことがあったのを覚えています。昭和四十年代前半ですから、活気もあれば人も激しかったですね。このとき住んでた家は風呂が五右衛門式で湯船に浸かるときに板を足で踏み抑えてたこと、隣の三兄弟家族が電話を借りに来てたこと、何時も迎えに来てくれた幼稚園の担任の先生がとても美人で、あるとき駆け落ちをしていなくなったこと。そんなバラバラの記憶が忘れられず、今もこの働きの悪い脳みそに入ってます。まあ兎に角暗かったです子供時代は。
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