ガラス湿板写真

イギリスのガラス湿板写真(10.5 x 9.3 cm)、恐らく1840年頃、イングランドのKendalという町のスタジオで撮られたものです。「幕末、明治の写真」(小沢健志 著、ちくま学芸文庫)を読んでいます。幕末から明治初期にかけての日本最初の写真師達が如何に苦労して、西洋人から学びつつも、手探りで技術を習得していったが書かれています。驚いたのは、幕末のカメラ一式の値段です。何と百五十両。今の感覚で言うと数千万円でしょうか。日本最初の写真創業者で上野彦馬と並び称される下岡蓮杖はガラス湿板写真の薬液調合が中々上手くいかず、一年以上も苦労したがどうしても出来ず、借金は二百五十両にもなり妻女共々夜逃げ寸前にまで追い込まれたそうです。

昔の写真をカメラのレンズ越しに覗いていると確かにちょっとゾッとする怖さのようなのはありますね。まだそのガラス板の中に閉じ込められた人はその中で生き続けているようにも思えますし。でも、怖いのと同じくらい魅力もありますね。今ぼくなんかも写真をカメラで撮ってもそれを紙に印刷し写真にすることは稀で、殆どの場合データとしてSDカードの中に所有してるだけ。データというものに実体はありませんから、触ったりも出来ないし、それを所有している持っているという実感はありませんね。ましてスマホで撮られた写真は、撮るのも簡単でお手軽ですが、写真そのものにも何の重みもありません。

実体の無さで言えば、今の車の運転もそうじゃないでしょうか。何もかもの至れり尽くせりで、人がすることはどんどんと減っているようです。安全かもしれないけど詰まらない。今まで自分の思考判断でしていたことがアウトソーシングされて、自分はどんどんともぬけの殻状態になっていく。スマホがまさにそう。

生きる、生活するってとても深みのあるもの、目には見えないけれどその向こうには深淵が控えているのに、何と平板で情報という水平方向だけの運動に人間を閉じ込めていくのか。僕たちはこの情報万能社会の裏側で随分大きなものを失っていると思います。