実はレースも扱っています。

アンティークレースの小さな物を数点。お店の見えるところには置いてませんがアンティークレースも扱っています。イギリス物が大半ですが、フランスやベルギーの物もあります。そんなに古くないですね、殆どが19世紀末から20世紀初めの物ですが、状態はどれもとても良いです。ハンカチ、ドイリー、ナプキン、テーブルクロス、枕カバー、ハンカチ入れ、スカーフなどがあります。ご興味おありの方はお店に来られたときに訊かれて下さい。もしくはお電話で。一昨年の冬のイギリス仕入れから遡って二回の仕入れ分のレースを殆ど出してなかったので、それをやっと今頃整理してる次第です。

最近、心疲れると、ステレオが置いてある部屋でソファーに掛けて、50、60年代のジャズをレコードプレーヤーで聞いています。デューク・ジョーダンのピアノのリズムの揺れが素敵で聴きながらその音の中に入れるんです。CDを聴いてもこんな感覚は覚えませんね。音と自分との間に膜がある感じで、音に没入は出来ない。それで最近はめっきりCDを聴かなくなっています。レコードにはその演奏のときの熱を切り取ってきたような感じがありますが、その直後にCDを聴くと妙に平板でよそよそしい。イングリット・ヘブラーのモーツアルトのピアノソナタやリヒテルのバッハの平均律などはCDでは聴いてますが、改めてレコードで聴くとそれは全くの別物で、今まで聴いていたヘブラーやリヒテルは何だったのか、と思ってしまうのです。CDって所詮データなんですね。データ化された物にだけ触れ続けていると、自分までもがデータ化され劣化していくような気がしますね。実際、スマホやパソコンに多大な時間を費やすようになった今の人間を眺めると、やはり私達は人として劣化しているんだと思ってしまいます。使ってるつもりで、いつの間にか奴属状態になっている。それとネットの世界は確実に僕らの言語感覚を軽薄にし、言葉に対して鈍くなって行きますね。データとしての言葉にしか反応しなくなる。言葉はデータとは違いますから。誰かがあなたに、「好きです」というとき、それをあなたはデータとしては受け取らないでしょう、それはその言葉は肉体の一部、想い、感情であり、それらを言葉を介して受け取っている。言葉には重さがあるんです。データには重さないんですよ、いつまでもゼロとイチの連瑣ですから。

デジタル生活って疲れますよね。その中にアナログなものを取り入れていかないと本当に疲れると思います。アンティークもアナログの世界です。18世紀のシルバースプーンやグラスに手で触れるとき、少しだけその時代に引き寄せられる。それに触れる自分の指先だけは18世紀なんです。そこに触れている。

僕はこれから世の中が部分的であれアナログに回帰していくんじゃないかな、と思っています。デジタルだけじゃ人間が腐っていきますよ。その点では僕の仕事のような、実店舗のアンティーク・ショップというのも絶滅寸前ですが、多少の希望はあるのかなと思います。スマホでボタンクリックでアンティークを買うのは矢張り歪(いびつ)な行為だと思います。