1898年製の杖

1898年製の杖(長さ 81cm)、木の種類は分かりませんがハンドル部分は水牛の角とシルバーで出来ています。シルバー部分には杖を贈られた人の名前が入っていて、どうやら学者達が退官するにあたり後輩の学者に贈った物のようです。杖の長さからして身長が170センチ位の人だったのではないかと思います。状態はとても良いので杖として十分使えます。中々かっこいい杖です。僕もアンティークの杖を自分用に一つ持っています。痛風の発作が起きて歩けないときに使うための物です。味も素っ気も無い健康杖みたいなのは持ちたくないのでアンティークの杖を使っています。

コロナ禍は中々収まってくれませんね。今年一杯は続きそうな感じがします。もしそうならば二年間はコロナで振り回されることになる訳で、その間に僕たちに及ぼす心理的な変化には計り知れないものがある気がします。最近目にするようになった言葉に「黙食」と言うのがありますね、まあ黙って食べて菌振りまくな、栄養だけを黙々と体内に取り込め、と。嫌いな言葉です。折角人といるのに喋らずただ食べる。マスクをせずに喋ることになるから食べるときはそれに集中しろ。飲食店などでこの「黙食」の二文字を見ると、たとえそれが小さな字でも何処かしら威圧的、強制的な感じを受けて嫌な気分にさせられます。本で読んだ昔の戦時中の戦意を煽る標語なんかを連想するんです。「欲しがりません勝つまでは」が「喋りませんコロナ消えるまでは」に変化して再来してきたような気もするんです。

勿論僕もマスクは大凡着用していますが、あれはやはりストレスですよ。慣れないし慣れたくもない。黙って静かに食べるのはある程度は必要でしょうが、それによるストレスも考慮に入れて欲しい。簡単に言えば、今の生活では溜まったものを発散する機会がとても少ない。心理的負荷が軽く掛かった状態が恒常化してそれが「普通」になっている。いや、それを普通だと日々思い込まさせられている。それから人に会っていても相手の顔が半分かそれ以上見えませんしね。あれも嫌ですね。その見えない部分を補足しようとする努力なのか、マスクの上に見える目だけで思い切り表情を作ろうとしている人を見るのも何処かね、痛ましい。

何時になったら何も気にせずにギャーギャー言いながら大声で話しながら飲み食い出来るんでしょう。それに今は色んなハラスメントがありますからそれにも配慮しないといけない。大体は分かりますがちょっと行き過ぎな気もします。人の心から差別が消えることなんてないですよ、心の中には色んな差別、矛盾、偏見が程度の差はあれあるものです。イギリス人で有色人種に全く偏見のない人がどれだけいるでしょう。日本社会で女性に対して全くフェアーな考えが出来る男性がそんなに沢山いますかね。人の心は基本闇です。そんなに綺麗にはいかない。差別は良くないけれど差別で機能してる面もあるんですこのへんちくりんな社会では。だから厄介でそう簡単にはいかない。例えば、女性として(優しく)接することと、女性に対する偏見を完全に分離するのは不可能だと思いますし、その二つは実は同じだったりもするんです。

もう少しだけ人間の負の部分にも寛容じゃないと疲れませんかね。そう思いませんか。分かっててもつい言ってしまう、ついやってしまう。人間ってそんなもんです。勿論、オリンピックの委員長やってたあのおっさんのような低レベルの失言は全くの論外ですがね。ああいう頭悪いのは大嫌いです、最低。

息苦しい世の中になってきてますが負けずにフツウに暮らしたいと思います。